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​夜明け前、僕らは地元を抜け出した

 正月には親戚中の人間がうちに集まる。
 先月免許を取ったのだからと新幹線駅からの送迎係にされた僕の大晦日は、正直普段より忙しい。
 高速道路経由での山越えは三往復目、それも降ろして走ってまた乗せて走っての繰り返しだから、昼飯から後五時間近く家に入っていない。
 ようやく家に帰りつけば、どっと疲れが出た。
 奥棟の自室へ向かおうとにぎやかな客間の横を素通り。
 しようとして、足が止まった。
「もう一回やってよ、織路にいちゃん!」
 幼い従兄弟の声が耳を刺す。
 反射的に振り返って客間に顔を突っ込んだ。
 ちびっこ軍団に乗られ引っ張られ大人気な青年がこちらを見て笑う。
「よ、久しぶりだな、慎路」
 千世織路、僕の兄だ。
 三年間、兄は盆も暮もそれ以外も一切帰省しなかった。それは彼の就職からの年数とちょうど重なる。
 まあ、元々大学進学時から勝手に一人暮らしをして実家にはほとんど寄り付かなかったけど。
「どしたの、急に」
「うん、別に? 仕事がなかったから帰ってきた」
 久しぶりに姿を見せた”大きいほうのにいちゃん”に興奮したちびっ子たちは飽きることなく突撃を繰り返す。兄の隣で話す僕にもよじ登り、つついたり潜ったり大騒ぎだ。
「だっていつも休みでも待機扱いだからって……それがどうして今年は」
「うーん、まあ色々あってな」
 地方公務員、市役所務め、それが兄の職業だ。
 政治家なら一族からも何人か出してきたが、公務員は兄が初めてだった。
 四年前の正月に就職先を発表したとき、見栄を張る親戚連中は兄を罵倒した。
 理由は複数あったが、兄はうちの会社を継ぐもんだとみんな思っていたのが大きい。
 優秀が故に期待も大きかった、それだけのことかもしれなかった。そして今、その期待はまとめて更に肥大化し、僕へ向けられている。
「色々ってなに」
「そりゃまあ追い追いな」
 兄は僕の質問よりも、しきりに膝に乗りたがる三歳児を優先した。
 その夜、年越しの宴の場に兄の席はなかった。
 父に抗議しようとしたが、口を開く前に諫められて諦める。 飲めもしない僕なんかより、口達者で気の利く兄の方がここに向いているのに。
 そう思いながら窮屈な広間を抜け出し、中庭が見える廊下に回れば、この寒い中外気に晒されて座る人影があった。
「なに、してんの」
「うん? 晩酌」
 どうやら重箱に入りきらなかったおせちの残りをもらってきたらしい。隣に散らかるのし紙から察するに、持っている缶ビールはお歳暮のだ。
「お前も飲む?」
「まだ未成年だし、いいよ」
「固いなあ、慎路は」
 茶化すように飲み干し、空き缶の腹を潰した。
 へしゃげたそれを置いて、代わりに箸を掴む。黒豆が食べたいらしいのだが、僕はその動作に目を疑うことになる。
 黒豆を摘まもうと頑張る右手がやたらぎこちなく、やっと持ち上がったかと思えば、口に運ぶまでに転げて落ちた。
「なんで利き手じゃない方で頑張ってるの?」
 兄は左利きのはずだ。
 こんな家だから散々矯正を試みられて、それでも直らなくてそのままなのに。
 兄は右手で手掴みした黒豆を口に放り込んでから目を逸らし、妙にぶらりと力のない左手を見せつけてきた。
「怪我して使い物にならなくなった」
 は?
「えっ、なに、どうしたの?」
「腱ざっくり切られてさ、リハビリ中」
「なんで?」
「あー、公務災害」
「はあ?」
「実は今も療養休職中、故に帰ってこれた」
 笑いながら新しいビールに手を伸ばす。
 右手一本で押さえて開けようとしたが、うまくいかずに缶は倒れた。
 代わりに開けてやれば、兄は小さく礼を言う。
「手、大丈夫なの?」
 どうもまったくもって大丈夫ではないらしい。腱も神経も根こそぎ断絶して、ここ三カ月日常生活にも支障が出ているという。
 何があったのか詳細を聞こうとすれば、守秘義務があるから言えないとはぐらかされた。
「お前はどうなんだよ」
「何が? 大学?」
「違う、ほら」
 何を指しているのかはすぐ分かった。
 僕が他の家族にはひた隠しにしている夢のことを聞いているのだ。
「あー……ちょっと行き詰まってる」
「だろうなあ。じゃなきゃこんなとこで浮かない顔してないわ」
 相変わらず鋭い兄。
 七つ上というのを差し引いたって、昔から優秀だった。どうして地方市役所職員なんてしょっぱい椅子に収まっているのだろう。

 兄の行動は危なっかしかった。
 とにかく二十五年生きてきていきなり利き手が使えなくなったものだから、全てのバランスがうまく取れないのだ。
 色々と心配だったので風呂も一緒に入り(介護じゃないんだからと笑われたが)、夜中に用意された年越し蕎麦はこっそり部屋まで運んでやった。人数が多い上に酔っ払いだらけなので、一つくらい誤魔化してもばれない。
 ただし箸で蕎麦を掴めるわけもないので、ちびっこ用のフォークに巻き付けて食べ進め、なんとか除夜の鐘が聞こえ始める前には台所へ丼を返すことができた。
 年越し番組を流しながら他愛のない話を続けていれば、不意に兄が鞄を探り始めた。
「久しぶりにあれやろうぜ」
 あれというのは、ジェスチャーから判断するにどうやら将棋らしい。その程度の動きでも左手では力が入っていない。
 タブレットを出してきたかと思えば将棋アプリを立ち上げる。昔よく遊んだ盤は兄の部屋にある。今は物置だ。
「確か八枚落ちだったよな」
 年の差もあって将棋で兄に勝てたことはない。まあそれ以外のものも大抵兄の方が上手いけど。
 とはいえ、僕だっていつまでも子どもじゃない。多少の成長はしているのだ。
「ちょっと甘く見すぎじゃない。平手でいいよ」
「強気だな、いつも悔しそうにしてたくせに」
「駒落ちだから負けたなんて、そんな言い訳は聞きたくないから」
 アプリの駒なら兄も簡単に動かせる。
 気遣いしなくていいなら、これは真剣勝負だ。
 三年待った、待望の一局。
 
 結論から言うと、兄はやはり兄だった。
 いいところまではいったものの寄せきれず、追い詰められてしまった。
「あー、悔しい……」
「しっかし腕上げたな、慎路」
「勝てなきゃ意味ない」
「そういうとこ、お前は変わらんな」
「数少ない長所なもんで」
 教えてくれたのは兄だ。
「もう一回やるか?」
「いやいいや。……次いつ帰ってくるの?」
 畳に寝転がったまま、兄はへらりと笑った。
 はぐらかすつもりだ。
「ていうか、休職中だったらしばらくこっちに……いや、それは無理か」
 この家での滞在は、快適には程遠い。
「淋しいのか?」
「は?」
「あれ、違うのか。お前俺によく懐いてたからてっきりそうかと」
 いやまあ、違うわけでは、ないんだけども。
 時代に合った価値観で僕の話を聞いてくれる家族は兄だけで、相談したいことが山盛りなのだ。
 それから、羨ましいのもあると思う。
 要領よく、この停滞した家を可能な限りの最短で抜け出した、その強運と度胸が。
 遠くで、新年を告げる花火が上がる。
 その余韻も消えて数秒、兄は右手で鞄を引き寄せた。
 革のキーケースに繋いだ大量の鍵のうちの一つを摘み上げて、企みと自信に満ちた顔で笑う。
「少々込み入った話があるんだが、これから俺の家に来ないか?」
 ああ、わざわざ嫌な思いしてまで帰ってきてくれたのはそれか。
 まったく、兄はやっぱり兄だ。

 元旦、我が家は最も手薄になる。
 誰も彼もが漫然と正月気分に浮かれるからだ。
 少しの荷物と緊張を胸に、こっそり車のエンジンをかける。
 夜明け前、僕らは地元を抜け出した。
 

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